その7 70年代、80年代その他の出来事

昭和50年(1975y)51年(1976y)3月 東海道本線 根府川
この当時から白糸川橋梁は有名撮影地だった。今のような風除けネットも無くすっきりしていた。

20系あさかぜ2号
ナロネ22×2、ナロネ21、3両のA寝台を連結した豪華編成の最晩年の姿
 157系 あまぎ
この系列のクロ157が貴賓車として生き残っている
EF65P型牽引のはやぶさ
SL無き後、ブルトレは大人気だった
EH10と雑多な貨車 
今となってはどちらも忘却の彼方
EF58と20系 これまた思い出のヒトコマ EF58+14系 銀河51号


EF65P型牽引のみずほ
その後牽引機はEF65PF型、EF66型と替ったが平成6年12月改正の九州ブルトレ統廃合で列車そのものが消えた。
余談だが昭和62年生我が家の次女はこの列車から名前を貰い「瑞穂」という。列車のように消えることも無く順風満帆に成長中で今年大学卒業した。

    昭和60年(1985y)8月 横浜駅
現存する唯一のEH1061
阪急電車の淡路駅近くの公園で保存されている
平成12年(2000y)8月

昭和51年11月 北陸線

特に撮りたい被写体が無くボーッとしていた頃で、とりあえずEF70でも見に行こうかとフラッと急行能登に飛び乗って出かけた。
南今庄駅近辺でサラッと撮影をして敦賀から急行くずりゅうに乗り米原回りでその日のうちに帰宅したが、大後悔が残った。そう、この時はまだ尾小屋鉄道が健在だったのだ。金沢から南今庄に向かう列車の中から新小松駅に止まっているキハ2型チラッと見たがその時はなんとも思わなかった。翌52年3月には廃止されてしまった同鉄道だが、今思えば非電化、ニブロク(762mm)と我が国最後の軽便鉄道だった訳で、これを無視した自分に対して猛烈に腹が立った。自分のテツとしての資質を問い直した後悔のみの撮影行だった。もちろんその後行けず仕舞いだった事は言うまでもない。

             EF70貨物列車
まだ1次型も健在でシールドビーム化もされていなかった
 485系加越 
北陸線はこの当時から特急街道だった
昭和51年 各地でのスナップ
両毛線70系 高崎駅 信越線70系新潟色 直江津駅 583系はくつる 福島駅 485系ひばり、ひたち 上野駅
ここまでご覧頂いた皆様はそろそろお気付きだと思うが、昭和52年から56年までの写真は皆無である。
中学3年まであれほどイレ込んでいたテツだが、昭和52年の高校入学と共にパタッとやめた。もちろん初めはやめる気など微塵もなかった。入った高校が西武沿線で、最寄駅がターミナル駅だった為当時は全機健在だった赤いスイス製古典機と毎朝対面でき、「よし、今年は西武の電機を制覇しよう!」などと一人意気込んでいた。
入学後のガイダンスやクラス分け後の自己紹介やクラブ見学等をしている内に4月が終わり連休が始まって「よし、ボチボチ出かけるか!」と思った矢先、あろうことか泥棒に入られ大事なキャノンEF+FD50/1.8をそっくり持っていかれてしまった。
カメラをしまっていた棚(当然この頃はドライキャビなど持っていない)に鍵は無くサルでも持っていける状況だった。しかし一緒に置いてあったFD24/2.4とFD100−200/5.6とストロボはそのまま残されていた。すぐ大騒ぎになり家中を点検したが他に被害は無く、現金や貴金属類は無事で盗られたのは私のカメラだけだった。
当然警察に被害届を出しましたが、家にきた警官が「怪我も無く、被害も小さくてよかったですね」とぬかしたのがもの凄く腹立たしかったのを今でもはっきり覚えている。
その後どのような捜査がされたのかは分からないが、私のカメラは戻ってはこなかった。
いつまで考え込んでも無いものは無いのでバイトをして新しいのを買おうと近所の喫茶店でバイトを始めた。時給はたしか¥350-か¥400-位だったと思う。
しかしコレが脱線の始まりだった。バイト先にはいろんな奴が居て、それこそ悪の誘いだらけだった。16歳の私は最年少で何もかもが新鮮な驚きの連続だった。
そんなこんなしている内にカメラを買いなおすと言う気持ちはどこかへスッ飛び、気が付いたら仲間とロックバンドを組んで、休日は撮影ではなくバイクを飛ばしてツーリングに出かけていた。盗られずに残っていた交換レンズやアクセサリ類は全て処分し、練習スタジオ代やバイクの改造費の一部に消えていった。18歳になるとバイクからクルマへ乗り物は変わったが相変わらずテツは休業状態だった。昭和53、54年には地元の青梅線や南武線から旧型国電が消えていたと言うのに、全く歯がゆくも情けない事をしたもんだと後悔ばかりが残っている。
その後20歳で商売を始めたり、21歳で結婚したりといよいよテツは閉店状態になったが、新婚当時暮らしていた小さいアパートの部屋で休みの日に一人ボーッとしていたら、急にテツが懐かしく思い出されてきてそのまま本屋に行った。そこで見た本(名前は忘れた、しかも立ち読みしただけ)に最後の活躍をする飯田線の旧国の記事があり、「こりゃ行かねばならん!」と思い、2,3日でカメラをゲット(金が無かったので中古の旧F−1+FD55/1.2とFD200/4)して取るものもとりあえず大垣夜行に飛び乗ったのが昭和57年夏、長髪のロック野郎が5年のブランクを経てテツの世界に舞い戻った記念すべき年だった。
テツ再開の頃の私 ちょっとヘン

I came back to the world of railroad enthusiast!  
いよいよテツの世界にカムバック(前述の通り、飯田線旧国や181系とき等ではじけた)

その他の修行の成果をさらっと

昭和58年3月 さよならED16 

飯田線の旧国や上越線ときの181系の他にも車輌の世代交代は破竹の勢いで続いた。
青梅線でEF15、EF64と共通運用を組み最後の活躍を続けていたED16が3月に12系客車5両を牽いてさよなら運転を行い引退した。20,21日は某テレビ局の買取でおもしろまじめ号として走りファンの間では賛否両論、物議をかもした。
1週間後の26,27日はさよならED16として正真正銘のラストランを行い我々の前から姿を消した。
昭和51年(1976y) まだまだ現役バリバリだった頃の姿。
ワラやトラといった雑多な貨車の編成が懐かしい。

SLが消えてはて何を撮ったものかと思案していた頃。たまたま通りかかった拝島駅での1枚。
何故拝島にいたのかは定かでないが、多分八高線のキハ35あたりを撮りに行った時だと思う。
ちょうどこの頃気動車が塗装の省力化とやらで朱色一色の通称首都圏色(とはいっても首都圏には走っていなかったが)なる塗装に変更され始めた時期で、初めて見たときまるでタラコのようになったキハ20やキハ35に愕然とし「こりゃイカン!」と思い国鉄色を求めて何度か撮影に出かけていた。
その八高線も今では電化され205系がカロヤカに走っている。
金子駅に進入する列車 腕木信号機が懐かしい 北八王子〜小宮間 この築堤は今でも好撮影地だ

昭和58年4月 鹿児島交通

  吹上浜駅に進入するキハ300型 国鉄キハ07タイプの気動車が最後の活躍をしていたのが鹿児島交通だった。液体式に改造されている以外はほぼ型を保っていた。
この時点では同和鉱業片上鉄道も岩手開発鉄道も健在でこれらの鉄道にも07タイプは居たが前面が2枚窓で原型と異なる為やはり鹿児島交通だろうという結論に達し出かけた。
新幹線、急行かいもんと乗り継ぎ(新幹線を全線乗車したのはこの時が初めてだったがその後は機会に恵まれずヒコーキばかりになってしまい、未だ2度目が達成できずにいる(※ついに2006年12月に記念すべき2度目の博多〜東京完乗を500系のぞみ34号で達成した!翌朝伊集院に到着。キハ10タイプの気動車が待機していた。あまり日数が取れなかったので鹿児島交通の全線乗車は叶わなかったが、吹上浜、伊作、加世田近辺でボチボチ撮影できた。中でも車庫の有る加世田はかなりコアな所で、もうとっくに用途廃止になったであろうSLや朽ちて原型をとどめない客車などが構内にゴロゴロしており、感動を通り越して少し怖いくらいの場所だった。
春の柔らかな日差しの下、物音一つしない線路脇の畑でカメラを構えているともの凄く贅沢な気分になれたのを今でも憶えている。
58年3月限りで廃止との情報は一旦は白紙撤回されたものの同年6月の集中豪雨で線路は寸断され、全線運休となりこのまま廃線かと思われたが7月に日置〜加世田間が復旧し一安心したのも束の間、他の被災個所は手付かずのまま翌59年3月18日に全線がバス転換され鹿児島交通の鉄道部門は廃止された。
    キハ100型 南吹上浜〜伊作間
  加世田駅構内に残っていたSL   キハ100型 阿多〜加世田間
加世田駅で発車を待つキハ100型 日置駅
伊作〜南吹上浜間

この旅で見かけた車輌たち

西鹿児島駅で発車を待つ485系「有明」 川内駅で発車を待つ宮之城線のバス窓キハ20

昭和58年5月 さよなら東武熊谷線

大東武の中にあって唯一の非電化ローカル線、熊谷線が5月31日を以って廃止された。
今思えば存続していたのが奇跡のような路線だったが訪ねたのが廃止間近の休日だった為どの列車も満員御礼でわびさびは感じられなかった。それでも夕暮れ時の妻沼駅から乾いたタイフォンを響かせて発車していく列車はやはり寂しげに見えたものだった。

昭和58年9月 日中線

朝に1本、夕刻に2本しか列車が無く、日中列車が走らないのに線名は日中線。この摩訶不思議な線区を廃止前にもう一度見ておこうと思い出かけた。
DE10の0番台、35系客車、そしてなんとこの時代に混合列車と来たもんだからもうビックリだ。
夕刻の2本の列車を熱塩駅でそれこそひいきのバンドのライブを見るような感覚で'’鑑賞''した。
廃線フィーバーにはまだ早くごくごく自然体の日中線を体験できたのはラッキーだった。
第1次廃止対象の特定地方交通線であった同線に起死回生の手立ては無く翌59年3月31日限りで廃止された。
写真はすべて熱塩駅にて

昭和57年、58年各地のスナップ

蒲原鉄道で一足先に廃止された加茂〜村松間の唯一の交換駅、七谷駅で離合するモハ31型電車とモハ41型電車 村松に車庫があり、全ての車輌がここをねぐらにしていた
気動車のようなバス窓が印象的なモハ91型電車
磐越西線 会津若松ー堂島間を行くDD51客車列車
スハフ32が最後の活躍をしていた