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その1 昭和50年〜51年 最晩年のSL達
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昭和50年、本線上からSLが消える年の8月、中学2年にして初めて一眼レフ(キャノンEF+FD50ミリF1.8)をゲットして勇んで撮影に出かけたのは最後のSLの聖地、北海道だった。それ以前も鉄道は好きだったので写真は撮るには撮っていたが、今となっては得体の知れないカセット式フィルムを入れる妙なカメラ(※その後コダック製インスタマチックでフィルムは126と称する24mm×24mmのスクエアであったことが判明)で撮っていたのものでネガも残っておらず、僅かに残ったプリントも色褪せたり、パリパリに割れてしまったりでとてもお見せできるシロモノではない。もっとも、固定焦点、シャッタースピードは1/100位の固定式だったのでマトモな写真があるとは思えんが・・・・・ しかし、その典型的バカチョンから高級な一眼レフに乗り換えたんだから使いこなせる訳がない。有名撮影地で先輩諸氏が使っていたYA−3フィルターを付けてトライXをつめて一人前になったつもりで初めて撮ったのが左の写真である。露出はカメラ任せのシャッター優先AE。この当時私の辞書に露出補正と言うコトバはなかった。 あまりにグロい仕上がりに愕然としたが記念すべき私の一眼レフデビュー作である。 このD51 96は廃車後秩父でSLホテルとして静態保存され、最近きれいに化粧直しされて碓氷鉄道文化村に搬入された。用途廃止後もカタチが残っている幸せなカマである。 |
| 今は無き旧夕張線の紅葉山駅でのスナップ。 何よりもナマ蒸機の熱い鼓動を感じるのが好きだった私は、少しでも蒸機に近づきたいと考えていた。沿線に三脚を据えて長時間待つなんて事は考えもしなかった。 基本的にSLを撮るカメラマンとしての資質に欠けていたと言わざるを得ない。 しかし熱気を放つカマの周りで過ごす時間は私にとって至福の時だった。この時もカマ士の好意でキャブに乗せてもらった。悲しいかな50ミリしか持っていないので(もちろんストロボも無い)キャブ内の撮影はできなかったが、機関士席に座り「あぁ、1度でいいから自分で運転してみたい」ととてつもない夢を見たものだ。 そんな夢が四半世紀後の1999年に叶うとはこの時想像だにしなかった。中国SL撮影ツアーのオプションで前進型の運転会があると聞き、速攻参加を決めた。これに関するレポートは最近の修行記録で紹介したいと思う。 |
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| 苫小牧駅で憩うD51。 今では考えらないがこの頃は構内立ち入りは全くと言って良いほど自由だった。 列車で駅に到着し、駅員さんに一言挨拶すると、「気をつけてね」の一言と共に構内立ち入りが許可された。 おもむろにホームから本線に飛び降り、指差喚呼で安全を確認しながらお目当てのカマを眺めに行く。必ず同好の氏は居るもので、クロスヘッドやバランスウエイトをじっと眺める人,魚拓宜しくナンバープレートの拓本を採る人、パーツ単位で写真を撮っている人等さまざまで、中学生の私は「世の中にはいろいろな人が居るもんだ」とつくづく感じたものだった。 |
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![]() 仕業に向け転車台で方向変換 |
![]() 給炭風景 |
![]() ギースルエゼクター付 D51340牽引の終焉間近な夕張線列車 |
![]() 列車交換の待ち時間に談笑する機関士と機関助士 |
| 正真正銘、日本最後のカマとなった追分機関区の49648。 昭和51年3月、もうここにしか居なくなったカマを求めて全国から同志が集まっていた。SLが本線上をガンガン走っていた頃はかなりコアなマニアの姿しかなかった追分駅の構内だが、この時は100人近く集まっていた。 前年の12月14日に室蘭線からC57の客レが消え、同24日には夕張線からD51の貨物が消えて日本の蒸機運転による営業列車の歴史が幕を閉じた。 そして僅かに残った入換え仕業に就いていたのが、最も車齢の高い大正生まれの9600だった。 |
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| 49648の僚機79616 テンダのゼブラ模様がいかにも入換機らしい | |
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入換え仕業にいそしむ96を横目に追分駅を発車する夕張線のキハ22. 当時は何処でも見られた当たり前の光景だが、今となってはただ懐かしいばかりだ。 こういった光景の復活は望むべくもないが、心の中に留めておきたい鉄道情景の一つだ。 |
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| SL終焉の年、道内初の電車特急485系いしかりが誕生した | いしかり以外の特急は全てキハ80系気動車での運転だった |